ゴビ砂漠

モンゴル南部から中国の内モンゴル自治区に渡って広がるゴビは、総面積およそ100万平方キロメートルにも及ぶ広大な大平原。ゴビといえば砂漠をイ メージしてしまうが、サハラ砂漠のような砂丘の連なる砂漠ではなく、砂地の他にもまばらな草の生えた草原や瓦礫や岩山、渓谷などさまざまな地形がある。珍 しい動植物や、宝石・貴金属の鉱石も多く、太鼓の恐竜の化石も多く発掘されている地質学的にも貴重な地域だ。
南ゴビでは、モルツォク砂丘で砂漠らしい景色を見ながららくだに乗り、世界で最初に恐竜の卵の化石が発見されたバザンヤクやゴビ自然博物館などの観 光を楽しめる。南東のドルノゴビ県にあるサインシャンドへは、ウランバートルから列車で行くので車窓からゴビの大自然の景色が楽しめ、砂漠でのらくだ乗り や周辺の観光も楽しめる。
ボルがんソムから20キロ離れてる、7000前の古物調査結果の多く発見されているバヤンザグへ出発。炎の断崖はアメリカの探検家ロイチャップマンアンドリュースによって名付けられたとして知られている。彼はモンゴルで2年間検査して世界で初めての10-15センチメートルの恐竜の化石や恐竜の卵を発見しました。

旧都カラコルム

首都ウランバートルから西に約350キロ離れた草原の中央部にカラコルムがあります。カラコルムと言う意味は“黒い石”という意味です。
モンゴル帝国の首都カラコルム市がどこに位置していたのかは昔から研究者の間で大きな謎でした。1889年ロシア人のヤドリンツェブが“エレデ二ゾー”寺院の近くに大きな都市の遺跡を発見しました。その一年後、1890年にはラドロブがその寺院の保塁壁、カラコルムの記録、ハーンの指令などが書かれた大きな石碑を発見しました。この調査からカラコルムの位置が確定されました。そして、1912年にコトロビッチ氏がラドロブのエレデ二ゾーから発見した記録書が“元朝必史”の内容と三つの項目で一致したことを明らかにしました。
首都カラコルムはモンゴル帝国の首都として32年間でした。1235年チンギスハーンの3番目の息子であるオゴタイハーンによって建造された宮殿がありました。しかし、今は何も残っていません。現在のカラコルムは人口2万人の小さな町です。このオゴタイハーンはわずか13年間の治世を行いましたが1241年56才で病死しています。病気にもかかわらず狩りに出かけ、夜遅くまで酒を飲んで翌朝寝床に伏したまま死んでしまったと言われています。現在、この宮殿跡には64本の柱の基礎が残っています。宮殿の床は緑の敷石で、壁には様々な絵が書かれており、屋根は赤や緑の陶器製の瓦をふいて仕上げていました。庭園には楽器を引くエンジュル像があり、お祭りや祝宴会用の豪華な造りとして建設されたのです。宮殿の近くには石の亊の彫刻物が現在も残っています。
モンゴル帝国の政治は宗教を差別せず、公平に敬っていたため、カラコルム市に仏教、キリスト教、イスラム教の、12軒の寺院がありました。郊外にはイスラム教寺院が二つ、キリスト教会が一つありました。カラコルムは1215年と1268年の2回大きな火事にあっています。他にも、中華民族によってなんども(1380-1466年)破壊されていますが、その度に修復していたのです。

チンギスハーン

チンギス・ハーンの家臣たち
チンギス・ハーンには幼い頃より行動をともにしたり、ともに戦ったりしたような「僚友」(ノコル)と呼ばれる功臣たちがいた。
なかでも四駿・四狗と呼ばれる8人は建国の功臣で、その子孫たちは元朝を通じて名族として繁栄した。
また、ヤラワチや鎮海といった文官もモンゴル帝国をよく支えた。さらにはイスラム系商人のアサンも経済面で多大の貢献をしたようだ。アサンは中央アジア遠征に際してはその参謀役を務めたのではないかとも言われている。

チンギス・ハーンと長春真人

長春真人は道教の一派、全真教の道士である。本名は丘処機、字は通密という。西暦1148年棲霞県の農家に生まれ19歳のときに道士となり、翌年全 真教の祖師王重陽のもとに弟子入りして「長春子」という道号を与えられている。彼は優れた道士で王重陽の高弟7人を「七真人」というが、長春真人はその中 の筆頭と目されている。長春真人は師王重陽の後を継いで布教活動を行なっていたが、その人物をチンギス・ハーンが招聘したのである。
チンギス・ハーンは不老長寿の薬を得るために当時道士として有名であった長春真人を招聘したのである。しかし招聘された時点で長春真人は74歳。彼 は山東半島に住んでおりチンギス・ハーンの宿営地まで約1万4千キロもの旅は不可能に思われたが、彼はその招きに応じ西暦1221年弟子18人を連れてチ ンギス・ハーンのもとに向かったのである。そして彼はその翌年、ヒンドゥークシュ山脈の麓、現在のアフガニスタンにあったチンギス・ハーンの宿営地にたど り着き、そこでチンギス・ハーンと面会することになるのである。
チンギス・ハーンは長春真人に会うと不老長寿の薬について尋ねた。それに対して長春真人は臆することなくそのような薬は無く、養生の法ならあること を答えている。しかしその答えを聞いたチンギス・ハーンは怒ることなく長春真人を厚く遇し、その教えによく耳を傾けたという。長春真人は西暦1223年に 帰途につくがチンギス・ハーンから賦税の免除や道教の統轄権という特権を与えられ、全真教は興隆していくこととなる。チンギス・ハーンと長春真人は西暦 1227年7月にともに亡くなっている。

チンギス・ハーンの死

チンギス・ハーンは西暦1226年秋に最後の遠征となる西夏征伐に向かった。チンギス・ハーンに率いられたモンゴル軍は連戦連勝でついには黒水城(カラホト)も激しい抵抗の末陥落させると、西夏の主要都市は次々降伏し西夏王は和議を求めてきた。
この遠征の最中にチンギス・ハーンは巻き狩りを行なったが、その途中彼は落馬し、大怪我を負ってしまった。そしてそれがもとで西暦1227年大帝国の創設者一代の英雄チンギス・ハーンは六盤山の本営でついにその一生を閉じたのである。

フブスグル湖

外国の観光客の中で、モンゴルのスイスと呼ばれているフブスグル県は山脈がそびえ立つち、清らかな川が流れ、草花が色とりどりに咲く清らかな空気のある県 です。フブスグル県の北はロシアと接していて、1万平方キロの面積を有します。中央アジアで一番深い湖であるフブスグル湖に因んで名づけられたこの地方に はエルヘル、アチマグ、ツェンゲルなどの湖や海抜3500メートルに立ち並ぶブレンハーン、ホリドル・サルディグ、ソヨンと言った山々などでもよく知られ ています。この県の森林資源は国内で第1に当たりますが、1人当たり5千平方メートルにも及びます。ここには冷泉や温泉などの鉱泉もたくさんあります。森 林にはカラマツ、ヒマラヤすぎ、えぞまつ、松、モミなどがありますが、カラマツの高さは40メートルぐらいの高さのものまであります。また、薬草もたくさ ん生えています。動物では、鹿、へラジカ、野生の山羊、野生の羊、クロテン、ビーバーなどの珍しい動物のほか、キツネ、狼、熊、リス、スカンクと言った動 物も生息しています。鳥ではコンドル、ワシ、きつつきなどが生息しています。フブスグル県の自然資源も豊富です。良質の石炭、宝石、ヒスイ、推奨、建築材 料としての灰石や大理石も数多く採掘されています。フブスグル湖は国内で一番大きな湖で79%が100メートル以上の深さです。この湖はとてもきれいで有 機物質も少なく、湖の底には酸素もおおいです。湖は小川のように澄んでいて10メートルにも生息する魚も見ることが出来ます。ここには、捕集用の10種の 魚が生息しています。あらゆる山脈からを源流とした100ほどの川がこの湖にたどり着き、ここからさらにエギという河川となり、セレンゲ川と一緒になりバ イガル湖に注ぎます。フブスグル湖は11月の下旬ごろ凍り始め、1メートルから1.5メートルの厚い氷に覆われます。フブスグル県の人口はウランバートル 市に次いでの人口を有します。全人口は11万6千人で、行政区は24郡からなります。県庁所在地はムルン市で、ウランバートル市から692キロ離れる所に あります。フブスグル県はフブスグル湖をメインにした観光やインフラを目指して発展しています。
ハンフからハトガルの石油の湖上輸送は禁止されたものの、冬に凍結した湖面を走るタンク・ローリーによる石油輸送は続いている。氷が割れてタンク・ロー リーが湖に沈む事故も少なくない。また湖の西岸に眠るリン鉱石の採掘も続いている。フブスグルの青はいつまで保全できるのだろうか。さて、この湖の近くの ハトガルという町で、過去30年間、気象データが計測されています。この地域の気温上昇は1年間に約0.05℃で、赤線で示した彦根の気温上昇(年間約 0.027℃上昇)の約2倍になっています。この湖を訪れるには、ウランバートルから小さな飛行機でムルンという町まで飛びます。この町から、ジープで3 時間くらいかけて道なき道を北に走ります。

ナーダム祭典ツアー

遊牧民族は、冬の準備をするために、夏の終わりから秋にかけて、狩を行います。
大昔、狩の季節の前に、彼らは自らの技術を磨くため、弓や相撲、競馬の競技会を行っていました。それがナーダム祭りのはじまりであるといわれています。
移動して生活する遊牧民は、国を挙げての競技会を利用して、長らく会っていない友達と再会を果たしたりしているうちに、どんどんお祝いとしての色が強くなりました。
モンゴルが満州の支配から独立した1921年、モンゴル人民革命を祝うため、ナーダム祭を行うようになりました。
2009年には、第88回のナーダムが、7月11~13日に行われるようになりました。
モンゴル語では、ナーダム祭を「エリーン・グラワン・ナーダム」つまり「男性の3つの競争」といいます。この3つの競技とは、モンゴル相撲、競馬、弓の3つを指しています。そして、それぞれで、強さと速さと目のよさを競うのです。

【モンゴル相撲

私はモンゴル相撲が大好きです。ナーダム祭で今年は誰が優勝するのだろう?と思うとドキドキしてしまいます。モンゴル人は誰でもモンゴル相撲が大好きですし、男女ともにモンゴル相撲は好きですが、特に男性の方がモンゴル相撲が好きな人は多いです。
モンゴルの21県から、512人の力士が参加し、トーナメント方式で対戦します。8回戦(ナイミーン・ダワー)が準決勝、9回戦(ユスィーン・ダワー)が決勝です。
ナーダムで勝ち残ると、ツォルと呼ばれる称号が与えられます。ナーダム祭で、1回優勝を果たすと、「アルスラン」(獅子)、2度優勝すると「アヴァ ルガ」、5度目の優勝で、「ダルハン・アヴァルガ」と呼ばれるようになり、一度得た称号が落ちることはありません。称号が上の方に行くと、芸能人や、政治 家になる人も少なくありません。
力士の衣装も注目したいところです。長袖で胸の開いた上衣である「ゾドグ」、ショータグと呼ばれるショートパンツ、先がそりかえったモンゴルブーツ(モンゴルゴタル)、中央が塔のようにとがった帽子(ジャンジンマルガイ)を身に着けて戦います。
モンゴル人民革命ナーダム祭で、12回優勝した力士は、国会議員になりました。また、日本の大相撲の朝青龍のお兄さんは、モンゴル相撲のヒーローです。
モンゴルの男性はみんな相撲をやりますが、特に友達同士で夏の時期、郊外へ休みに行きながらモンゴル相撲をして楽しむことが多いです。

【競馬】
モンゴル相撲と並び、ナーダム祭のもうひとつ大切な楽しみが、競馬です。
競馬には、「アザラガ(種馬)」「イへ・ナス(6歳以上馬)」「ソヨロン(5歳馬)」「ヒャザーラン(4歳馬)」「シュドレン(3歳馬)」「ダーガ(2歳馬)」「ジョローモリ(側対走馬)」の各レースが行われます。
モンゴルの馬は背が低く、足が短いため、長距離を走るのに優れているといわれています。2歳馬の15キロからイヘ・ナスの30キロ超まで、長距離を数百頭が競走します。
各レース、上位5頭を、「アイラグ」と呼び、その馬をたたえる詩句を吟じ、馬乳酒をかけて祝福します。
また、レースの土ぼこりを浴びたり、勝った馬の汗を体につけると縁起がよいといわれています。
モンゴルの競馬は、騎手が6歳~12歳の少年少女たちです。「馬上で育つ」といわれるモンゴル人の面目躍如ともいえるが、馬の負担を軽くし、スピードを出させるためでもあります。
騎手はレースがスタートする前に励ますギーンゴーと呼ばれるメロディーを歌います。
ギーンゴーを聞くと、馬たちはレースのスタートが来たと身構えるのです。ギーンゴーのメロディーは、大草原に一番見合います。
驚くほど早く走る馬。途中で騎手が振り落とされたのか、騎手なしでゴールにかけこんでくる馬。どうしても進もうとしない馬に途方にくれて泣き出す子供もいて、さまざまなドラマが毎年生まれます。

【弓】
ナーダム祭のもうひとつの競技は弓です。
弓を射るまでの距離は、男性75メートル、女性65メートル、17歳以下は男性が年齢×4メートル、女性は年齢×3メートルで計算します。
弓の長さは120センチメートル~170センチメートルで、竹の芯で作った弓を、鹿の角をにかわで張り合わせて強度を増し、両端をしらかばで加工しています。
矢は長さ約1m、白樺やヤナギ科の落葉樹などで作られ、矢の後ろに鷲などの羽根がついています。矢尻には鹿の骨が使われており、的は牛や馬などの皮をなめしてつくったソルを積み上げて作ります。
形は円形で、高さ8cmぐらい。壁のように積み上げたものハナ(壁)・ソル、30個を2層24個、両脇に3ずつを積み上げたものをハサー・ソルといいます。
競技は個人戦と団体戦があり、個人戦は成人男性がハナ・ソル20矢、ハサー・ソル20矢の全部で40矢、女性はハナ・ソル20矢、ハサー・ソル16矢の全部で36矢、17歳以下は男女ともハナ・ソル20矢を射て命中した数を競います。
的の後ろと手前3mに線があり、弓射る人の矢が的にあたった場合「オーハイ!」と声を上げて知らせます。観客も「的中!」「惜しい!」などと声をかけて楽しむのです。

 

モンゴルの伝統的祭典

 
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